田中こうじ店 隠岐の島で100年続く老舗の糀専門店|糀 麹 味噌 金山寺 塩糀 米こうじ 麦こうじ

田中こうじ店のあゆみ

~美味いものには歴史あり。隠岐の島の人々に愛され続けた味。創業100年・老舗の糀専門店の歴史。

隠岐の島に移住

5599826.jpg明治維新で大きく変貌した日本。明治5年の日本の総人口は3,480万人でしたが、日清戦争、日露戦争を経て、明治末期には5000万人を越えるまでになりました。人口増にともない、多くの人々はカルフォルニア、ブラジル、ハワイなどに移民に出ていき、また国内でも北海道や離島に新天地をもとめて開拓にでる人々が大勢いました。
 
このような時代背景の中、初代・田中長蔵(たなかちょうぞう)は、明治時代末期に隠岐の島に移住してきました。移住当初は、農業と漁業で生計をたてていました。


偶然の出会いから創業

DSC06500.JPG隠岐の島に移住してしばらくしたとき、初代・田中長蔵が隠岐の港に積んである沢山の醤油を見て、隠岐の島で醤油が作られていないことを知ります。醤油は大豆、小麦、塩を原料とし、糀菌、乳酸菌、酵母による複雑な発酵過程を経て生成されます。明治時代までは、醤油、味噌、甘酒などは各家庭で作られていることが多く、各家でのオリジナルの味が親から子へと引き継がれていたのです。
 農学校を出ていて糀造りの知識と興味があった初代・田中長蔵は、早速糀と醤油作りを始めます。これが「田中こうじ店」の始まりとなったのです。当初(明治44年頃)は、知り合いにだけ販売し、自家製の味噌や甘酒などの作り方も指導していました。

専業の店~組合ができる規模まで

DSC06728.JPG初代・田中長蔵の糀は、大変評判が高くなっていきました。数年後、思い切って糀作りを専業とすることにしたのです。こうして隠岐の島の中で、糀をつかった自家製の味噌や甘酒などを作ることが根付いていったのです。昭和の初めには隠岐の島の「こうじ屋」は13店にもなり、組合が作られるまでに成長していきました。


最後の1店になっても伝統を守る

DSC06399.JPG第二次世界大戦後、醤油や味噌は、完成製品として販売されるようになり、家で作る習慣がなくなっていきました。甘酒を飲む習慣も少なくなっていきます。また、隠岐の島では、若者が都会へ出ていくようになり過疎化が進みました。このような背景により、最盛期には島内に13店あった「こうじ屋」は、次々と廃業していき、今では「田中こうじ店」1店のみとなっていきました。


初代・田中長蔵の言葉を胸に

DSC06787.JPG初代・田中長蔵が残したのは「良い糀を造るには“汗をかく位に、体を使って糀を造れ!!」という言葉です。手抜きをしないで丁寧に糀作りに励みなさいということを伝えたかったのでしょう。この言葉を胸に2代目・田中次夫、3代目・田中美由記が糀作りの伝統を守り続けています。